本来、日記はノートに書くものである。自分の考え、感じたことなどを記すものであり、他人に見せたくないもののはず。
学部時代にインターネットやブログなどをテーマにする友人がいて、その発表のときに、先生が言い出したことである。日記の変貌について。
院の同期に、現代社会の生きづらさを研究する人がいる。
「生きづらい」から、現実社会が生きづらいから、人は別の世界で自己開放するのかもしれない。その別の世界はインターネットである。流行のmixiを通じて、Blogを通じて、ネットという世界で同じ匂いの人を求める。
人との付き合いは、所詮一時的なものである。
と思っている学部時代のあの友人は、結局ネットでも自分の生きる道、価値を見いだせなかったのでしょうか。この世を去ってからもう一年経つ。彼の告別式は言いようのない空気に包まれていた。一年ほどを経った今でも、忘れることができない。
インターネットの普及してからまだ20年も経っていない。
当然、mixiで代表されるネット社会、Blogなどはそれまでは存在しなかった。存在しようがなかった。物理的な社会は極めて単純であった。人々は物理的な豊かさを求め、社会の発展の渦に巻き込まれていく。
科学、医療なども今ほど発展をしていなかった。そのときには、精神的に病んでいるなんて思う人はそれほどいなかったでしょう。そんな知識、認識はさほどなかったでしょう。
その時のそれらが普通であった。
もしかしたら、そのときに日記に書いている人たちは、その内容を誰かに読んでほしかったのかも。誰にも言えない、言う勇気のない気持ちを誰かに知ってほしかった。
ねぇ、聞いて。
ねぇ、分かって。
ねぇ、これが本当の私よ。
と思っていたのかもしれない。
いま、インターネットは普及した。mixiがそんな人々の潜在意識に隠れていたその欲望を現実にした。Blogの誕生は、欲望を現実にすることをより身近にした。
同時に、人々は気がついたのよ。
この社会はもう単純じゃない。あらゆるところに、落とし穴がある。
だって、それまで欲望は夢に過ぎなかった。しかし、今は欲望を実現する条件が整っている。人々はその欲望を肥大させてしまう。でも、欲望が肥大しても、条件は限られている。そんなの、認めたくない!現実から目をそらす人々がたくさんいる。いや!むしろ、全てが偽りであり、全てが一時的である。人は、転生輪廻の一環に過ぎない。
それが生きづらさなのかもしれない。
しかし、生きるを求めるのは本能である。
だから、人に見てほしい日記が生まれる。
その日記にはその人の休憩場所である。その人が助けを求める場所である。その人が、その人であるための空間かもしれない。
実際、私がいまこの文章を書いているときも、誰かにみてほしい、誰かに私の潜在意識にある何かを知ってほしいのかもしれない。
けれども、それは何なのかは、実際その本人しか知らない。
ただ,本人はそこから目をそらしているだけ。
認識してしまうのが、怖いから。
人はこういうもの。
Blogで本当の自分を巧妙に晒し、そして巧妙に隠している。
だから、主観というのは厄介なものである。

0 件のコメント:
コメントを投稿