社会学を学ぶのはなぜか。
そもそも大学進学時に、二つの学校に合格した。
1つは広島修道大学、もう1つは実際進学した学校。
修道大は環境に関しての学部だった(はず)
けど、自分は関西にいたかったから。
そして、大学院進学。
正直、当時の指導教授に背中押されたのがある。
けど、いま振り返ってみて
私は「わたし」を知りたいから進学したのかもしれない。
その第2章の内容。
相互行為であろうが、個人化社会化であろうが、アイとミーであろうが、秘密と信頼であろうが、そのすべては私にとって自分の人生を照らし合わし、自分を知ろうとしていた。過去を思い出し、過去に照らし合わし。
そして、本を読むたびに、自分は謎に包まれていく。だから、本を読み続けている。
これが第2章を読んでから思った事。
これが、私が社会学を専攻する理由。
同様。
「規範意識」に興味を注ぐのも同じ理由。
私という大いに問題ありの私の規範意識はどうなっているのか。
これまで、経験したきた数々の出来事は、私にとって何を意味するのか。そして、この私は一体どういった者なのか。
わたしは、私が分からないが故に社会学を通して知る。
しかし、それは楽な作業ではないであると同時に、これはとてつもなく辛い作業でもある。
逃げたくなる時は多々有る。
そして、逃げる理由をたくさん準備してある。
しかし、「社会学」から逃げられても、私はわたしという厄介な存在から逃げられない。
結局、わたしはこの何年間の間で、自らその厄介の程度を上げてしまった。
だから、最近は思う。
そろそろ辞めたほうがいいじゃないか。苦しくなっていく一方であって、その答えは永遠に見つかる事がないだろう。
いや、しかし、これこそ逃げるための理由である。
いや。これは逃げるのではない。
じゃ、何なんだ?
自分を苦しめ、苦しみ続けた果てに何を得られるのか。
「わたし」という厄介な存在を正確に解釈することができるのだろうか。

2 件のコメント:
アイデンティティ問題ですな.正直なところ,〈アイデンティティ〉に関する社会学が大の苦手である.
というか,素朴な疑問なんだけど,「自己(自我)の社会学」とか「アイデンティティ論」とか社会学の領域でなされているけど,それって社会学なのかな〜,と思うんさ.
ある意味で社会学であるということは認める.つまり,〈社会〉から〈主体〉への視線/〈主体〉から〈社会〉の視線へと織りなす閉じえぬ環として〈社会〉と〈主体〉を捉えかえすときに,浮かび上がってくる〈主体〉としての〈自己〉.という場合.
その場合は,〈自己〉を形成する際に〈社会〉からの何らかの曲率を与えられて人格形成されるわけだ.そのときに,〈自己〉と〈社会〉の関係が捉えられる.その過程を〈社会化〉と捉えてもいいだろう.だけど,実際の研究って適当にはぐらかしている.
僕は,そういう人間心理は複雑すぎて対処しきれないから,〈人間〉概念を放棄しているのだが.
色々な意見があると思うけど,例えばyuanのように「自分自身の経験や体験,自分が何ものかを確定させようとしたり,研究対象に強い執着」があるからそれを研究しようとする.っていう考え方もりだけど.
そういうこと(=自分が何者かをかんがえること)を誠実に考えれば考えるほど,「自分が不確定」な存在になる.だから,自分を理由に,もしくは「自分の動機」を理由にして「研究対象や動機」を説明するのは間違っているきがする.なぜなら,「自分(自己)は不確定」なのだから.
そうだからこそ,「研究対象」はなんでもありえた.たまたま,その対象を選んでしまっただけなのだ.自分が決めたんじゃなくて〈社会〉がそうさせてしまったんだと考える.
学ぶ理由,研究する理由は〈私〉には存在しない.〈社会〉の側に存在する.
だって,「先行研究」に不満があって研究するってことでしょ?先行研究は,〈社会〉に蓄積されたものであって,〈私〉に蓄積されたものではないのだから.
駄文失礼w
まったくその通りだと思う。
だけど、自己は社会に反作用し、自己を形成させる。
問題はここにある。
自己を理由に研究対象や動機を説明するのは間違っている。
いや。自己は不確定だからこそ、研究する価値があるのでは?とも思わなくもないが。
昨日の授業での出来事は自分にとってショッキングであって、そして自分の中で何かが壊れていったきがする。それは何なんのかは、まだわからない。
コメント、ありがとう〜
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